東京野歩路会は不滅です=創立92年目

 自宅の改築で処分する古い書類中に「山嶺」を発見し、いつの日か燃えるゴミに出そうと思いながら分厚い封筒のまま4年……。ゆうパックに出したら住所が違うと電話が有り、インターネットで調べて……。何とも古い人間のすることでお恥ずかしい次第です。

 小生は富山県西部の砺波市の生まれです。来年春には北陸新幹線が来ると騒いでいますが高岡駅に停車しない列車を止めるのに今頃陳情に署名させられても効果はないでしょうネ。その高岡にある県立工芸高校を卒業し、東京の印刷会社へ就職。

    富士山=世界文化遺産に登録され目出度い!

 良く晴れた朝、早く起きて宿舎近くの坂を上った高台にある神社の境内から西方の新潮社ビルの右後方に富士山が小さくてもはっきりと見えました。丹沢山塊の向こうに白く輝いているように……。翌年昭和34年7月下句、東京駅午後11時50頃のSL列車、富士登号で吉田口より頂上を友人と2人で登りました。スバルラインも無い頃で五合目辺りより頂上が見え、背中に太陽を背負い砂利道のような登山道は他の山にないつらさを体験しました。山頂が見えているのになかなか届かない……。以後、山麓など社の旅行で風穴も見た……

   大菩薩峠(連嶺)=中里介山の小説で山名だけ知って

 前年、東京野歩路会に入会し、何度目かの山行である。昭和36年7月2日前夜新宿駅発、塩山駅下車。パーティーは8人、暗い夜道を先輩の後を懐中電灯で足元を照らしながら~…明るくなり、福ちゃん荘など過ぎ~峠の標識で記念写真を、好天に恵まれ富士山はじめ360度の超展望に大感激。山中で仮眠を撮ったりしたが、帰路のルートが奥多摩の小菅~小河内ダム(奥多摩湖)で、当日のコースをよく認識していなかった小生は、道中で何度も睡魔に襲われフラフラと、迷惑をかけたのではないかと今も思っています。(奥多摩駅=当時は氷川駅)

    鳥海山へ (1971年=昭和46年)

 昭和46年8月1日上野駅夜行寝台列車で、秋田県の象潟駅下車。2日晴れ、頂上へはなかなかで、山小屋泊夕食後、屋外で持参の花火を楽しむパーティーは10人くらいだったか?3日は好天、頂上で持参の西瓜を味わった。誰が背負って来たのか?荒々しい火口に残雪あり。赤トンボがたくさん飛んでいるのを見る。少し下って残雪の長いスロープでスキーをしている登山者に暫したたずむ。コースの予定に最初からあったのか知らないが、山形県の酒田市内に下山し、市内観光に。有名な本間家に入りお茶を一服頂き、市内見物であちこちにミイラのお堂が有り、昔、生きながら成仏した偉いお坊さんがたくさんいたということを聞く。歩いていると海岸へ…~。太陽もまだ高く、乗車時間が夜なので、海水浴をしていこうという事になり、酒田の海岸で存分に泳い

で帰路に着くというとても面白い山行になったので忘れられない。

その時の乗車券が残っていて、印刷文字を列記すると…

 8月3日乗車駅発21時25分 鳥海3号急行券/B寝台券

201k以上乗車駅酒田下車駅上野5号車15番上段 1400円

 46.7.23②東京京橋発行

上記の8 3 21 25 3 酒田 上野 5 15 の文字は駅で書き込まれたか車中で、乗務員が記入したボールペン書きの文字。


 都電が全線有った時代、地下鉄が渋谷から、銀座~上野~浅草の田原町までだけ。明治神宮の隣に米軍のワシントンハイツと言うのが有って、白っぽい洋風の住宅地が広がっていました。国鉄もバスの初乗り10円(回数券は100円で11枚付)タクシー60円(ルノー)勿論首都高速道路など無し。ラーメンも40~50円/杯 映画館も名画座などで時々50円があった。ハイボールが50円/杯 家賃4500円/4.5畳 敷金1~2ヶ月 コーヒーも50円くらい?

 当時の山行はよく新宿駅を使いました。西口は交番が有って広場は砂利で7~8本のバスの停留所になってそれぞれ街路樹が植わっていた。夜など奥の方は暗くて危うい感じだった……都庁舎が立っている現状は全く想像を異にします。小田急・京王などのデパートも勿論無かった。中央線沿線(甲州方面その他へ)の山行にはよく夜行の列車を使い、駅地下の指定場所にザックと共に並びました。時々屋外の東口に列の出来ることも…日帰りで夕方駅に帰ってくると、まず解散では無く、ぞろぞろとザック担いで、角筈の電停通りに有った「三平食堂」の3階(?)へ。各人お好みのオーダーで飲食し歓談してお開きに…一般客とは違った登山客の容姿や持ち物、履物でも当時は許される場所もあちこちに有ったようです。


 集中登山といって、各方面から(4か所くらい)リーダーが隊を引き連れて同じ頂上で集合するという山行も有りました。いずれも小生は日帰り程度の山行に参加していました。いずれヒマラヤヘ?などとちらっと考えたり、神田や駿河台方面の有名なイズミヤやその他の数件のスポーツ用品店をハシゴしたりしました。当時の登山靴は重くて裏に金属の鋲が前後に打って有ったりした…シモンピッケルはいいな……

 山行後の集まりがまた、楽しみでした。写真は殆ど先輩が撮っていて1週間後くらいにサンパウロ(喫茶店名)などで渡された。そんな集まりも、当時唄声喫茶と言うのが大流行し、どこの山行でもちょっと小休憩には必ず唄が出ました。入会当初、歌詞も曲も知らないのが多くて全員で合唱されると一人黙している訳にもいかず困りました。日本の唱歌やロシア民謡・アメリカ・ヨーロッパの歌が幅広く、なんと…合唱団のハイキング?かと錯覚するくらいでした。こんな時も過ごすので山行の仲間は絆が強いのかと思い知らされました。

 新宿歌舞伎町界隈にも「灯」「カチュウシャ」「山小屋」ほか賑やかな街に歌声喫茶が出来て、歩いていると歌声が(合唱の)聞こえていたり、土・日曜などは席が無いので、集まる時は仲間に席取りを頼んだりしたものです。喫茶店の中が半分くらい2階が吹抜けになっていたり、ギターと専属の歌手が隅の方に有る小さな舞台で、客のリクエスト曲に従って歌うと、店内の客も知っている曲だと歌うのです。コーヒーの味などどうでも良いのです。店内の一角をグループで占拠し、何曲でもリクエストして皆で楽しんいる。時々歌詞の替え歌部分が大声になったりする。上からメモ用紙に好きな歌を書き、階下のウエーターに投げたり……酒場とは違った不思議な世界でした。各店では歌詞を印刷した手の平入るくらいの小さなサイズの歌詞の本を番号付けて発行していた、山行の時にも持参して、何番の本の何ページの……とか。

 山行以外に山岳映画会に時々日比谷の第一生命ホールに行きました、後楽園ホールにも行ったが講演会だったか?思い出せない!野歩路会に入ったのが20代前半だから、自分も若かったと苦笑している。

 いつだったか神田の小料理屋の2階で忘年会としてささやかな宴会をしたことがあります。集まったのは住人あまり?全員で物々交換をすることになっていて、少額ながら決まった額で持ち寄る事になっていて、大きな包みや、小さな包みで一度に中身を開いて笑いの渦になった事もありました。なぜかと言えば、集まる人は年齢がうんと開いた方も同席される事が有り、思わぬハプニングが起きたりした……

 兎に角、会の先輩方には人生観も共に教わったような気がしています。山行のメンバーには予期せぬときに老人(失礼)が参加されていたりして色んな事を仕事柄も多忙になり、会からも足が遠のきその内、先輩方の新年会の集まりだけに顔出ししたりしていましたが、長男の喘息がひどくなり医師の転地の勧めも有り千葉の八千代市高津団地から、昭和50年の夏に富山へ越して現在に至っています。3名の先輩と賀状の交換は有りましたが、千葉の原田さんと藤沢の小久保さんには現在も賀状つながりを持っています。

 お陰さまで長男の喘息もなくなり、孫娘も上は中学2年、下が小学6年長女は東京の稲城市に住んでいます。


以下手書きで追伸

 こんな年まで生きるをも思わず来てしまい、今は謡曲を習っています。絵の教室にも通って、昔日は水道橋の能楽堂や銀座の能楽堂、矢来の能楽堂に座ったのは遠い昔。2010.2012年は横浜の能楽堂で篠笛を吹きました。何年か前(2001年)に朝日新聞発行の週間日本百名山を全冊毎週買いました。「剱岳点の記」「春を背負って」

幾ら書いてもキリが無い。2016年は立山へ登れば良いかと思ているのだが 来年は少しトレーニングしなくちゃ!


東京野歩路会の更なる発展をお祈りします。


若い頃椎名町にも住んだ事有り。マンガ道のトキワ荘近くだったのに、藤子不二雄さんも大先輩だったと知ったのはづっと後の事でした。

2014/11 元会員 川辺俊夫

東京野歩路会の歴史

 

 創立92年を迎え、更に飛躍する東京野歩路会の歴史をご紹介します。

 大正11年(1922)10月、東京の下町柳橋で瀬戸物屋の息子が、弱冠20歳で近所の人々と意気投合してつくったのが柳橋山岳会です。初代の代表は本多月光氏で、会員は15名でした。この山岳会が東京野歩路会の前身です。
 創立1年で関東大震災に遭い、東京の下町は大変な被害を受けましたが、離散した会員もいち早く集まり、再建に努めました。当時は関西方面の社会人山岳会が盛んで、東京の山岳会は数えるほどしかありませんでした。

 創立した年の7月に10人ほどで槍ガ岳に登った際、前後して登っていた団体が神戸野歩路会でした。当時、神戸野歩路会は日本の五大山岳会のひとつに数えられ、会員も300名近くいたそうです。 山に登ろう会、野を歩こう会と書かれた旗を見て感心した本多さんがこの名前を拝借したということです。
 その後、このことを神戸に連絡したところ、神戸野歩路会東京支部ということになり、会報にも載ったということです。
 
 関東大震災で会旗もバッジもなくなったため、現在の東京野歩路会の旗とバッジをつくり、現在90年を迎えました。 神戸野歩路会はその後5年ほどで消滅したということですが、東京野歩路会はますます盛んになり、スキー学校の開設、山岳映画の普及、観光バスの前身である団体乗車の開設など、新しい試みを次々と実行してきました。

 しかし、戦争によって再び大きな試練を受けることになりました。 
戦争が激しくなるといろいろうるさくなるもので、政府から名称が気にくわないから変更するよう圧力がかかりましたが、野山を歩いて心身を鍛える意味としてかどうか、有耶無耶になって結局残ったそうです。
 軍人会館(現在の九段会館)が完成し、大ホールで映画会が開催されるようになると、定員オーバーは絶対に認めないなど、憲兵隊の厳しい注文が多くて苦労したそうです。

 会員番号は関東大震災と戦争のために2回つくり直しましたが、
現在は1万台を大きく上向る番号になっており、
本多さんもぴっくりしているのではないでしょうか。
 戦後、焼け残った数少ない建物を利用していち早く映画会を開催したことは、娯楽ひとつなかった社会状況の中で大変意義のあることと思いますし、
その中で多くの映画人も育ってきました。
 現在は玄人の山岳映画が進出し、金銭的な負担が多い素人の映画づくりが低調になったことは誠に残念ですが、簡単に映画がつくれるビデオカメラも普及してきたので、大型スクリーンで上映できるようになりました。 素人には素人の良さが必ずあるものです。

 自然保護の問題が最近になって大きな社会問題として取り上げられていますが、この点についても東京野歩路会は創立当時から心を用いてきました。
 スキー学校なるものを始めたのも野歩路会ではなかったでしょうか。
 昭和初期、草津温泉は下の病を治す温泉として有名で、一般の人はあまり訪れない湯治場でした。 そこへ本多さんが会員を連れてスキーに行き、正月には草津でスキー学校が開かれるのが恒例となり、戦後も長い間続きました。最近は、諸般の事情によって野歩路会の草津スキー学校はなくなりましたが、現在のスキースクールの基となったのではないでしょうか。

 これらの歴史の中で、昭和43年2月に創立45周年を機に編集・発行した『費用と案内 山旅300コース』は、会の主旨の集大成であったと思います。
 あれから35年の歳月が過ぎ、偉大な創立者である本多月光代表も亡き人となり役員も大幅に変わりましたが、今日まで会創立の主旨は引き継がれてきました。

 1992年6月20日に創立70周年記念事業のひとつとして山と渓谷社のご厚意で再び「東京の山百山50コース」を発行することができました。この案内書は身近な東京都内の山を対象にしたもので大方の山行になったものと思考しております。

 最近は、中高年の登山やスキーが急増しています。反面事故も急増しているのが現状です。2012年10月の創立90周年を機に、自然保護、安全登山の普及などさらに努力してゆきたいと考えている次第です。

 

  2014年8月             東京野歩路会名誉代表 上島昌之